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第84話集賢殿の夜
JA
殿賢集
第84話

集賢殿の夜

世宗 ② · 1420~1440年代
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場面ごとに風・焚き火・川の音が変わり、物語の流れに合わせて音楽も変わります。
前回までのあらすじ

1418年に22歳で王位に就いた世宗は、その年の冬、王妃沈氏の父・沈温を失った。王位を譲ったのちも兵権を握っていた上王・太宗が下した死だった。王妃は父を失いながらも、王のそばを離れなかった。1422年5月に上王太宗が世を去ると、ようやく若き王の時代が始まった。

登場人物

世宗朝鮮第4代の王
1420年、24歳
昭憲王后世宗の王妃
十人の子の母
申叔舟集賢殿の若い学者
宿直を一手に引き受けた
トックム漢陽の官婢
この回の想像上の人物
マクトントックムの夫・官奴
この回の想像上の人物

1440年代のある冬の夜、景福宮。皆が寝静まった時刻にも、灯の消えない館があった。

殿賢集
世宗集賢殿には
まだ灯がともっておるか?
内官はい、殿下。宿直の学者が
まだ書物を読んでおります。

その館の名は集賢殿——「賢者の集う館」。

王がその館に初めて若い学者たちを集めたのは、
それより二十年ほど前のことだった。

1420年、王は名ばかりとなっていた集賢殿を大きく広げ、若く才ある学者たちを選んで集めた。

世宗古き書物の中に道がある。
そなたらが、その道を探してくれ。

学者たちは昔の制度や書物を研究して王に申し上げ、王の前でともに経書を読み、論じ合った。

1426年、王は三人の若い学者に、思いがけない命を下した。

世宗これからは集賢殿に出仕せず、
家で心ゆくまで書物だけを読むがよい。
その実りを余に見せてくれ。

国の仕事のかわりに書物を読めと与えられる休暇——「賜暇読書」だった。

王もまた、夜更けまで上疏や書物を読んだ。そんな夜には、王妃の居所にも遅くまで灯がともっていた。

昭憲王后夜も更けてまいりました、
殿下。
世宗これだけ読んだら参ろう。
民のことゆえ、
後回しにはできぬのだ。

朝鮮の民は、ほとんどが農業を営んでいた。

ところが、国にある農書は中国の書物だった。中国の土地と気候に合わせて書かれた書物だった。

朝鮮の農業は、
朝鮮の農夫に学ばねばならなかった。

農事直說農事直說

王は各道の観察使に命を下した。

村ごとに年老いた農夫を訪ね、彼らが生涯続けてきた農法を尋ねて書き記し、差し出せ、と。

役人籾はどのように選ぶのか?

年老いた農夫水に浸けてみればわかりますよ。浮くのは捨てて、沈んだのだけを使います。

1429年、その言葉を集めて編んだ書が世に出た——『農事直説』。

王の名で刊行された書だったが、その書を作ったのは朝鮮の年老いた農夫たちだった。

1430年、王は税の法を改めようとした。

それまでは、役人が毎年田畑を回り、作柄の良し悪しを見て税を決めていた。役人の思うままに決められることも多かった。

新しい法を定める前に、
王はまず民に尋ねることにした。

1430年3月。

役人たちが都と八道の郡県を回って尋ねた。

役人新しい税の法、よいか、いやか?

高位の官人から名もなき農夫まで、五か月にわたって——

17万2806人が答えた。

よいという者が9万8657人、いやだという者が7万4149人。

土地の肥えた南は賛成が多く、土地のやせた平安道と咸吉道は、ほとんどが反対した。

賛成のほうが多かった。しかし王は、法をすぐには施行しなかった。

王はそれから十四年にわたって、法を直しては、また直した。

土地を肥え具合によって六つの等級に、その年の作柄の良し悪しによって九つの等級に分けた。

勝った側の声だけを聞いたのではなかった。
負けた側がなぜいやだと言うのかを、長く聞いた。

1444年、新しい税法「貢法」がついに定められた。

漢陽の役所では、国に属する奴婢たちが働いていた。子を産んだ婢でさえ、七日たてばまた働きに出なければならなかった。

トックム官婢
トックム赤ちゃん、母さん
すぐ帰るからね…

家に置いてきた赤子は、乳を求めて泣いた。

1424年の春、王の長女・貞昭公主が十三歳で世を去った。

王は三日のあいだ朝会と市を止め、御膳から肉の料理を下げさせた。

1426年4月12日、娘の喪が明ける日。王は娘に捧げる祭文に、こう記した。

世宗の祭文礼には終わりがあれど、
情に終わりはないのだな。

五日後の4月17日、王は命を下した。

子を産んだ官婢を、
百日休ませよ。

都でも地方でも、すべての官婢に対してだった。

1430年、王はふたたび命を下した。産み月まで働いて、家に帰りつく前に子を産んでしまう者がいるから、産む前にも一か月休ませよ、と。

マクトントックムの夫

それでも夫のマクトンは、夜が明ければ働きに出なければならなかった。

1434年、四十歳の王妃が八男を産んだ。十番目の子、末っ子の永膺大君だった。

世宗よう頑張ったな。
…まことに、よう頑張った。

同じ年の4月、王はもうひとつの命を下した。

子を産んだ婢の夫も、
三十日休ませよ。

夫が休めずに産婦の世話ができず、命を落とすことさえあって、まことに哀れである。夫婦が互いに助け合うという道にもそむく——それが理由だった。

その年、官奴のマクトンは三十日のあいだ、働きに出なかった。

湯を沸かし、粥を炊き、泣く子を抱いて寝かしつけた。

マクトン…王様がそうしろとおっしゃったんだって。

トックム王様も…子どもを産んだことがおありなのかしら。

王にも、十人の子を産んでくれた妻がいた。

宮殿の王妃にも、役所の婢にも——子を産む夜は、同じように長かった。

歳月が流れ、1440年代。集賢殿には新しい顔ぶれが加わった。

その中で、申叔舟という若い学者は、皆が嫌がる宿直を一手に引き受けた。夜通し、集賢殿の書物を思う存分読めるからだった。

王は夜ごと内官を遣わして、集賢殿の様子を見させた。

内官まだ読んでおります。

内官…いまだに読んでおります。

一番鶏が鳴くころになってようやく、若い学者は机に突っ伏して眠りに落ちた。

王は着ていた貂の皮衣を脱いだ。

世宗起こさずに、掛けてやれ。

朝、目を覚ました申叔舟の体には、王の皮衣が掛けられていた。

その夜、王も眠らなかった。明け方、王妃がのぞいてみると、王は単衣一枚で座っていた。

昭憲王后皮衣は
いかがなさいました…
世宗…もっと寒い者のもとへ
送ったのだ。

この部屋の若い学者たちは、のちに王とともに新しい文字を練り上げることになる。

けれど、その夜々のうちでいちばん長い夜は、
まだ訪れていなかった。

第84話 おわり

歴史ノート

物語の場面は、こうした記録や遺跡をもとに描きました。

  1. 景福宮・修政殿の全景景福宮・修政殿 — 世宗の時代に集賢殿があった場所

    集賢殿

    集賢殿は高麗時代から名前だけがあった機関ですが、世宗が1420年に大きく拡充し、若い学者たちを集めた研究機関にしました。学者たちは昔の制度や中国・朝鮮の書物を研究して王に申し上げ、王とともに経書を読む経筵を受け持ち、多くの書物を編纂しました。はじめ十人あまりだった学者は、のちに三十人を超えるまでに増えました。1456年、世祖が端宗復位事件を理由に廃止しました。

    『世宗実録』2年3月 · 『韓国民族文化大百科事典』
  2. 賜暇読書 — 読書のための休暇

    1426年、世宗は集賢殿の学者、権採・辛石堅・南秀文に「集賢殿に出仕せず、家で思う存分書物を読め」と命じました。国の仕事を休んで読書だけをさせたこの制度を、賜暇読書といいます。のちには寺で読ませることもあり、成宗の時代には読書堂という建物まで建てられました。

    『世宗実録』8年12月 · 『韓国民族文化大百科事典』
  3. 『農事直説』の表紙『農事直説』

    『農事直説』

    世宗は、中国の農書が朝鮮の土地と気候に合わないと考え、各道の観察使に「年老いた農夫(老農)に経験を尋ねて報告せよ」と命じました。鄭招と卞孝文がこれをまとめ、1429年に『農事直説』を刊行しました。籾の選び方、田畑の耕し方、稲・麻・豆・麦などの農法を朝鮮の実情に合わせて記した、韓国で最も古い農書のひとつです。

    『世宗実録』11年5月 · 『韓国民族文化大百科事典』
  4. 1430年、17万人に尋ねた税法

    1430年3月、世宗は新しい税法(貢法)について、都と各道の官吏と民の意見を問わせ、8月に結果が上がってきました。合わせて17万2806人のうち、賛成が9万8657人、反対が7万4149人でした。慶尚・全羅・京畿では賛成が多かったものの、平安・咸吉道では反対が圧倒的でした。世宗はすぐには施行せず、長い議論と試行を重ねて、土地を六等級(田分六等)、豊凶を九等級(年分九等)に分ける貢法を1444年に定めました。

    『世宗実録』12年3月・8月、26年11月
  5. 官奴婢の出産休暇

    世宗は1426年、官婢が子を産むと100日の休暇を与えるようにし、1430年には出産前の1か月の休暇を加えました。1434年には「産婦の世話をする者がおらず、命を落とすことがある」として、その夫にも30日の休暇を与えるようにしました。それまでは、子を産んで7日で再び働かなければなりませんでした。奴婢を財産とみなしていた時代に、彼らの出産と看護を法で守った、まれな例です。1426年4月12日、世宗は2年前に13歳で世を去った長女・貞昭公主の喪を終えるにあたって「礼には終わりがあるが、情には終わりがない」という祭文を作り、その5日後に100日休暇の命を下しました。

    『世宗実録』6年2月25日、8年4月12日・17日、12年10月19日、16年4月26日
  6. 宝物「申叔舟肖像」申叔舟肖像

    申叔舟と王の皮衣

    16世紀の金安老『龍泉談寂記』に載り、『国朝名臣言行録』などに伝わる話です。集賢殿で宿直していた申叔舟がろうそくをともして夜遅くまで書物を読んでいると、世宗は内官に何度も様子を見に行かせ、鶏が鳴くころにようやく眠ったと聞くと、着ていた貂の皮衣(貂裘)を脱いで、眠っている彼に掛けてやらせました。朝になって初めてそれを知った申叔舟の話を聞いて、士人たちはいっそう学問に励んだといいます。申叔舟(1417〜1475)は1439年に科挙に及第し、1441年に集賢殿に入りました。『実録』にはない、言い伝えの話です。

    金安老『龍泉談寂記』 · 『国朝名臣言行録』
  7. 想像で描いたもの

    官奴婢の夫婦トックムとマクトンは想像上の人物です。王が学者たちや王妃にかけた言葉、年老いた農夫の言葉、マクトン夫婦の言葉、王妃が子を産んだ夜と皮衣を送った明け方に王と王妃が交わした言葉は、記録にないため創作しました。娘の喪を終えた日と100日休暇の命、1434年の永膺大君の誕生と同じ年の4月の命は、いずれも『実録』にある出来事ですが、そのあいだのつながりは、この回の解釈です。

    『世宗実録』

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第85話 · 天を測る人

東莱県の役所の奴婢として生まれた男がいた。王は彼に、天を測る仕事を任せた——蔣英実、そしてひとりでに鳴る水時計。

写真の出典

このウェブトゥーンの挿絵はすべて新たに描いたもので、登場人物の名前とせりふは史実と研究成果をもとに想像で再構成したものです。年代と解釈は学界の一般的な説明に従い、意見が分かれる点は歴史ノートに記しました。